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童貞骨牌 ライジング

 まず、マンガを一つ読んでいただきます(クリックで大きくなります)。

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(いがらしみきお『家宝』より)

 ここで少年は、「それ」が何かを知りません。
 そのため、「それ」を知っている両親とのコミュニケーション手段はなく、まるで、少年が映画を見ているかのように、こちら側とあちら側は完全に断絶されています。
 だからこそ少年は、何とか自分の手持ちの知識によって、その世界を理解しようと考えます。自分の知り得るわずかな手がかりから、テレビ、マラソン、牛乳、砂糖入り牛乳、プロレスと、自分の世界の枠組みの中で「それ」を理解しようとします。けれども全くわからない。
 しかし、少年の身体は「それ」が何であるかを知っていることには注目するべきでしょう。「それ」が持つ行為が持つ意味の予感として、体の一部が反応し、自ら認識します。
 ところが、少年の思考はそれを理解しません。少年はあくまでも自分を構成する意味の中で世界を了解するために、固くなったおちんちんにバットとの類似を見出し、「それ」を野球と結びつけます。
 そんなことに無知がために拘泥している限り、少年が真に「それ」と関わる契機は訪れません。
 だからこそ、両親の行為はいつまでも、少年の存在を全く無視して行われます。少年が「それ」を知らない限り、「それ」に関わることのできない少年は、「それ」をする両親に認識されない。
 両親の行為は、受け手の思惑も事情も省みずに進行する映画のように、盛り上がりながらも淡々と続けられます。

 いがらしみきおの「それ」の提示の仕方は非常に即物的です。
 「それ」は過剰なまでに「絶対にそこに在るもの」としては描かれています。目の前で行われ、触れることもできる。布団の上に在り、野球場にも在るものとして「それ」はあります。この布団から野球場への飛躍は、世界の至る所で「それ」が存在しうる可能性を予感させます。
 言い換えれば、居所に関係なく「それ」は存在しうる。場所によって行為の意味が変わらないことは、「それ」が「本当に在る」らしいことの強度を誇示しているとは言えないでしょうか。

 言語によって虹の色の数が変わるというのはよく聞く話です。
 日本に藍色という言葉があるから藍色が見えるように、混沌とした世界は言語によって区切られ、認識される。これが「『それ』を表す言葉が無い限り『それ』は存在しないことになる」という考え方です。
 ところがこの魅力的な考えも、そう簡単に言えることでもなく、最近の研究では、色を表す言葉を「白」と「黒」しか持たないグランドバレー・ダニ族が、純粋な赤と他の色が混じった赤を見分けていることが証明されています。彼らは色の名前は知らないのですが、二つが別の色であることはわかるのです。
 同じように、言語に制約されない強さが「それ」にはあります。言語による認識を超えて、その影響は脳に侵入し、揺さぶります。

 いがらしみきおのマンガで、少年は「それ」を知りませんが、「それ」が自分の興味を引く何がしかであることは知っています。色の名前を知らなくても色を見分けているように、です。
 そこには、父は大人であるがゆえに「それ」のやり方を知っており、「おもしろさ」を知っているという確信があります。少年が最後のコマで父に話しかけながらグリグリと結合部を棒でいじるのは、そこが「それ」のおもしろみであることを直感的に理解するとともに、エディプス・コンプレックスの表れともとれるでしょう。息子は、父が自分の愛する母を「それ」によって所有していることを「なぜか」知っており、父と敵対することになるのです。

 さて、エディプス・コンプレックスとも関係しますが、このマンガに象徴されるように、子どもが「それ」に直面する時どのような作法をとるべきかという問題はかねてから議論されることです。
 なぜなら、「それ」が学ばれるものだからです。性的器官の感覚的快楽をもとめる欲求そのものは本能と呼んでも差し支えないかも知れませんが、その欲求を満たすための方法や、何によって満たすかという対象は先天的に備わっているわけではありません。
 性的な魅力を感じるものは人のよって違います。本能に「それ」がインプットされているのであれば、ホモセクシャルは存在しないはずです。
 群れから隔離され孤独に育てられたサルには性交の仕方が全然わからないという研究結果がありますが、その事実もまた、「それ」が明確に集団生活の中で学習されるものであることを示しています。村の若者が宿に集まって夜這いのスケジュールを指示されて行われる夜這いなどの民俗風習もまた、これを表すものであると言えるでしょう。当然、性教育もその一貫です。
 つまり、マンガにおいて少年が「それ」を知らないのは、まだ誰にも、いかなるものにも、もちろん両親にも、「それ」を教えられていないからなのです。
 しかし、「性的器官の感覚的快楽をもとめる欲求=本能」があることは「変になったオチンチン」によって提示されています。
 学術的に正しく、そのねじれを印象的にはっきりと提示している点だけでも、このマンガは大きな声で「凄作品」と言えるものです。

 さて、少年が年を経て思春期ともなれば、外部からの教育的効果により、少年は「それ」を自分の知識において理解し、希求するようになります。いわば、自分の世界に知識として「それ」を存在させ、「それ」の疑似体験(根本的には違うものですが)を自らの手によって可能にさせます。
 彼らは思考や想像を働かせます。その感触に、来るべき興奮に思いを巡らせて止みません。
 しかし実際のところ、それはいがらしみきおの描いた少年と何の差があるでしょう。マンガの少年も、思春期の中学生も、童貞の二十代も三十代もうん十代も、自らの持つ知識で「それ」を理解しようとしている点では同じです。そこでは憧れは興味の変奏であり、妬みは憧れの変奏に過ぎません。
「それ」がどんな行為であるかを知ったところで、「それ」を本当に知るためには、「それ」を行うしかないという事実が重くのしかかるのみです。

【求める人たち】
men

 今、二種類の「知る」という言葉を使いましたが、記憶には二種類あります。
「手続き的記憶」と「宣言的記憶」です。
 手続き的記憶は、繰り返しある手続きを体験することで保持される記憶です。自転車の乗り方、ブランコのこぎ方、ピアノの弾き方などがこれにあたります。この記憶は、意識しないで利用することが可能であり、だから年を取っても失われにくいものです。
 一方の宣言的記憶は、「意味記憶」と「エピソード記憶」に分類されます。
 意味記憶とは「普遍的かつ一般的な知識」のことを指し、エピソード記憶は「個人的な出来事や想い出に関する記憶」です。
 例をあげるなら、「研ナオコは過去に薬物をやっていた」は意味記憶で、「研ナオコにチンコとリプライを飛ばしたらブロックされた」は当人にとってエピソード記憶です。
 基本的には、エピソード記憶として覚えた情報を利用する内に、意味記憶が増えていくという過程をたどります。

【研ナオコ】
研ナオコ

 上は、エピソード記憶「研ナオコは薬物をやっていたとtwitterで教えてもらった」の瞬間です。
 後にこのエピソード記憶が、「研ナオコは薬物をやっていた」という意味記憶として定着することとなります。ちなみに研ナオコは大麻での逮捕です。

 では、ここで問題の「それ」にまつわる記憶は、どんなものがあるか考えてみましょう。
 思春期に本や雑誌や友人との談笑で得る知識は、宣言的記憶です。最終的には「それ」についての知識としての「意味記憶」に帰着します。
 無論、その「意味記憶」を増やしながら彼が求めるのは、「それをしたというエピソード記憶」と「それの仕方という手続き的記憶」です。
 童貞にただようある種の虚無感や劣等感は、この二つを持たないことに起因すると言ってよいのではないでしょうか。

 いがらしみきおのマンガに戻るならば、両親はまるでそれが「手続き的記憶」であることを強調するように、「それ」を言葉もなく継続します。
 そして、その「手続き的記憶」にまつわる秘密は、ほかでもない少年によって説明されています。それが、お父さんが知っているに違いないと少年の推理する「痛くないやり方」です。自転車に乗れるようになるように、痛みを伴わずに(気持ちよく)やれるようになるのが、「それ」の正体なのです。
 先ほど「手続き的記憶はなかなか消えない」という意味のことを書きました。それは裏を返せば、トライ&エラーを繰り返す必要のある得難い記憶とも言えます。得難いがゆえに忘れがたいのです。

 小島信夫さんの奥さんは、認知症が始まったのとほぼ同時期にガスコンロを買い替えたら、スイッチが〈ひねる方式〉から〈押すだけの方式〉に替わって、そのために使えなくなった。ガス器具のメーカーは、「ひねるタイプより押すタイプの方が簡単だ」としか思っていないけれど、何十年もひねりつづけてきた人には、習慣を切り替えることができなくて、ただ押すだけが“障害”になる。ガス器具のメーカーが押すタイプだけでなくひねるタイプも製造を続けていたら小島さんの奥さんの認知症の進行を少しは遅らせることができただろう。
(中略)
 新しい機械に切り替えるのが当たり前の社会では、いま機械を使いこなせている人が、いずれは機械を使えない人になる。そういうことには、開発チームの外に「その便利さが致命傷になる人がいるんだよ」というアドバイスができる人を置かないと歯止めがかからない。
(保坂和志『途方に暮れて、人生論』)


 皆さんはもう「エスカレーターに乗る・降りる」という手続き的記憶を有しているので、老年にさしかかった時モタモタするおじいさんおばあさんにはなりません。ただし、新しく様変わりしたシステムになった時、それに対応する能力はもう持っていないのです。
 一方の宣言的記憶、特に「意味記憶」は最も忘れやすいタイプの記憶です。受験勉強とは、多くの場合で意味記憶の覚え合いになりがちですが、それを人はどれだけ覚えているでしょうか。時間とともに、みるみるうちに忘れ去られていきます。

 ここでいよいよ核心に近づいてきました。童貞が持っている「それ」に関する記憶を考えてください。彼はどんな記憶を持っているでしょうか。
「それは気持ちいい」「それはあたたかい」「それは幸せだ」「対面座位が一番いいらしい…」
 これらは決して、「それは気持ちよかった(エピソード記憶)」→「それは気持ちいい(意味記憶)」という過程を踏んだ記憶ではありません。
 こうして打ち込まれた「意味記憶」は、受験生が毎日くり返し勉強することで記憶を保つように、毎日サルのようにそれについて考えることで保持され、強固なものになっていきますが、同時に、常に風化にさらされてるのです。
 ここに漂う儚さや虚しさを我々は何と表現すればいいのでしょうか。それは当の童貞本人にとって、骨牌(カルタ)にでもして表現できるほど軽薄なものでしょうか。また、該当者でなければ、それを軽んじて笑うべきものでしょうか。
 そんなことをするのは驚くほど簡単で、実際に多くの人がその戯れに興じていますが、この問題にとって、本当におもしろく興味深く心を打つものは一体どこにあるのでしょうか。

【宣言的記憶+手続き的記憶によってボケても思い出はくっきり】
naniwa
(青木雄二『ナニワ金融道』より)

「それ」は、人生の中で大きな部分を占めることになるにちがいないものです。社会の秩序の中では、「それ」や「それ」に類するものによって倒錯し、狂ってしまうこともあり、性的倒錯が極まり逸脱した者は「価値革新的逸脱」と呼ばれるような犯罪を犯し、抑圧された夢を実現するヒーローになってしまうことすらあります。
 そんな危うさを含んでいるからこそ、多くの宗教は結果的に信仰者を増やすことになる以外の目的でなされる「それ」を拒否します。さらに、もともとの仏教ではそれすらも拒否します。法華経の信仰に生きた宮沢賢治も「それ」にまつわる一切を切り捨てる生活を選びました。

 この町には私の母が私の嫁にと心組んでいた女の子の家があるそうです。どの家がそれかしりません。またしろうともしません。今これを人に聞きながら町に歩くとしたらそれは恋する心でしょう。私はその心を呪いません。けれども私には大きな役目があります。摂受(相手やその間違いを即座に否定せず寛大に受け入れ、穏やかに仏教を説くこと)を行ずるときならば私は恋してもよいのかも知れません。その事はけれども何でもない。何でもない。これらはみんな一握の雪で、南無妙法蓮華経は空間に充満する白光の星雲でもあります。
(『宮沢賢治全集9 書簡』ちくま文庫)


 賢治にとって、「それ」へ向かうものは、一握の雪なのです。
 確かに「それ」は、ここまで書いてきたとおり、握れば溶けるはかないものです。
 賢治は童貞でした。
 童貞ならばこそ、その「一握の雪」のようなはかなさを実感したのでしょう。それはもちろん「意味記憶」です。だから、はかなさにおいて「それ」を切り捨てるのは、くり返すことで身につく「手続き的記憶」を無視することでもあります。
 童貞の恐れとは、「それ」が身についてしまうことへの畏怖なのかもしれません。だから、「それ」を「自分の持っている正しさ・楽しさ・面白さ」と比較し、代替できるものだと信じようとします。多くは宗教者ではないから、悪口や呪詛の言葉を並べることもあります。
 ここでまでの話が分かったら、もう一度マンガを読み返してみてください。少年が無意識のうちに、「自分の好きなプロレスや野球」と「両親の行っているそれ」を、両親に比較させようとしているのがおわかりになると思います。
 人は「それ」を知る前はいつまでも、自分にとって一番楽しい「野球場」のようなところへ居たいのです。自分のいる安住の場所が、よりよい場所であることを確かめたいのです。もちろん「それ」を求めながらという矛盾した態度でもあります。
 その安住の場にいることにより、またそこにいた時の記憶により、上記のような「自分の知っている正しさ・楽しさ・面白さ」を突き詰める心や鬱屈としたルサンチマンから、様々なものが生み出されてきたと考えるのは少し大袈裟でしょうか。
 私はそんな人たちを応援する者です。
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松本人志「生涯で稼ぐ金額はカラスヤの方が上やないかな」


社会的状況のもとでの行為は演技の要素を含む。行為者は同時に演技者(パフォーマー)であり、観客(オーディエンス)を意識した「印象の演出者」である。
(E・ゴフマン 石黒毅訳『行為と演技――日常生活における自己呈示』)



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 島本和彦の『アオイホノオ』で、大学の先輩(で先輩の彼女)であるトンコさんに恋心を抱いている焔燃(ほのお もゆる)が苦悩するシーンです。
 『カリオストロの城』であれ『明日のジョー』であれ『仮面ライダー』であれ、自分のやるべきことのために報酬を求めない、その生き方に共感してくれる女性を自分のものとしない。
 やるべきこととは仕事と言いかえてもいいかも知れません。それに対してひたむきになることと、女性を愛することは両立しない。まして当然、女性を傷つけることも許されない。だからこそ、カリオストロ的ルパンや矢吹丈や鉄郎のような主人公が選択されてきた。それは創作者のルサンチマンであったかも知れません。
 そのような気持ちは葛藤こそあれ、純粋な感情として提出されることがほとんどです。フィクションに触れてきた人は、ハマった人であればあるほどそれらの登場人物に感情移入しているはずで、焔燃のように、実際の人生のことある事にしつこく参照するはずです。
「ここで抱きしめたらルパンになれない」と思うことで、純粋な感情を保とうとする。なぜルパンでなければいけないかというと、俺にはやるべきことがあるからだ。というのが焔燃の思考です。

 批判もありますが、日本人が外的な批判を意識する「恥の文化」であるというのは、ルース・ベネディクト『菊と刀』以来たびたび言及されることです。さらに、山本七平は昭和期以前の「恥」から「空気」への移行についてこう書いています。

「どうしてですか、言論は自由でしょ」
「いや、そう言われても、第一うちの編集部は、そんな話を持ち出せる空気じゃありません」
 大変に面白いと思ったのは、そのときその編集委員が再三口にした「空気」という言葉であった。彼は、何やらわからぬ「空気」に、自らの意思決定を拘束されている。いわば彼を支配しているのは、今までの議論の結果出てきた結論ではなく、その「空気」なるものであって、人が空気から逃れられない如く、彼はそれから自由になれない。従って、彼が結論を採用する場合も、それは論理的結果としてではなく、「空気」に適合しているからである。採否は「空気」がきめる。
(山本七平『「空気」の研究』)


 マンガに限らず、主人公の系譜とは場にまつわる恥や空気を浄化する存在でした。それは、『宇宙戦艦ヤマト』が、地球の空気を浄化するコスモクリーナーDを取りに行くことが目的となる点に象徴的に表れています。
 そして、そのようなサブカルチャー作品群がサブとしての機能を果たさず、誰にとっても当り前なものになるとしたら、「空気」の質は変容していくはずです。
 つまり、人生の喜怒哀楽の中でマンガでもテレビでもなんでもいいですが、フィクションにおける場面が想起されることは自然であるという空気です。もはやこんなことは誰にとっても当り前です。
 最も極端な例を出せば、上野顕太郞『さよならもいわずに』は妻を亡くした出来事を描いた、あえて言うとエッセイマンガですが、その中にこんなシーンがあります。

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 ここで数あるマンガの「泣き」シーンのサンプリングが登場するのは、「我が子が亡き母(妻)に宛てたクリスマスカードを見て起こる強い感情=純粋な感情」がマンガには描かれている、という表明でもあります。
 自分の純粋な悲しみは、これまで読んできたマンガの登場人物達に走ったそれと同じものだと信じていなければ、こんなところに「マンガの泣き」を挿入出来るはずはありません。
 勘違いをしがちですが、もはや多くの人にとって状況はこうなのではないでしょうか。
 フィクションによって知った「純粋な感情」が、ふいに訪れた人生の悲劇喜劇によって「純粋な感情」としてもよおされる。
 少なくとも、その割合が増えていることは確かです。フィクションを参照することなしに意思を決定することが難しくなってきている。
 だから、フィクションの方から多くのことを学んできた人々は、現実に触れて驚きかねません。男性向けのマンガに出てくる主人公たちの多くは奥手であり、恋愛より優先するものがあったため、それを恋愛のメインモデルとしてきた焔燃のようになるのかもしれない。女性向けのマンガがタイプとしてその逆であることは言わずもがなです。
 でもこれに関しては印象論の域を出ませんので、そこまで真に受けないようにして下さい。

 で、だからこそですが、フィクションが好きな人たちは、なんとなくこんな希望を抱いているはずです。
 つまり、みんなアニメやマンガや映画や本の主人公に憧れ、そのように生きることを目指すようになる……という希望。
 でも当然、そんな考え方ばかりしてると割を食う。人生において損をする。女の子をゲットできないし、楽しい青春を謳歌できない。
 だって女の子はもともと何かが起こるような関係にないし、自分はマンガの主人公のように何ができるわけでもないし、気に喰わない生き方をしている人をおおっぴらに「敵」にはできないし、その人達こそが幅を利かせているし、碇シンジのように運命に翻弄されるようでいながら目の前で何かが起こるわけでもない……。
 福満しげゆきが描くのは、フィクションと人生は違うという割り切りながらも、人生においてフィクションを参照しまくってしまうという態度です。

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 こうした偉そうなこと(であると思われる!と本人が直感したこと)を書いたあとは、「でも、こんな偉そうなこと言っておきながら僕も……」というエピソードが申し開きのように挿入されることがほとんどです。
 ここで言えば、「僕のデビュー作はまさにそんなマンガだったのです」という記述ですね。
 偉そうなことを言ったあとで「結局、僕も同じ穴のムジナ……」という意味のことを打ち明けるのは、「自分が一度浄化した空気や恥をまた適度に汚す」という処世術です。みんな多かれ少なかれやっているはずです。
 そうすることで、誰の顔にもおうかがいを立てることができる。エッセイマンガとして開かれたものになる。下のようなことを考えたら、そうするほかないのです。

「基本的には「人」は何を考えているかわからないものなのです」(『僕の小規模な生活3巻』P99』)

 福満しげゆきがよく描く、セックスのことしか頭にない「ゲヘー」といやな笑い方をする簡略化して描かれたヤンキーとか芸人とかは、本当にそれしか考えていない本当の本当に下劣な人として(これも批判をかわすためでしょうが)「あえて」描かれています。これは、私からすると、マンガやアニメや映画や本を見ない人として描かれているように思えます。もっと詳しく言うと、フィクションから身の振り方を学ばない人です。
 こうした偽悪的な描き方は、福満自身の相対化であると見なした方が正しいでしょう。それがうかがい知れる発言として、福満作品には「『○○』を読んでいたから僕にはわかるぞ」「『△△』で××が言っていた」という台詞が数多く見つけられます。

 島本和彦を援用した上でやや大雑把に類型化すると、福満にとって「下劣な人=フィクションから学んでいない人=女性に対する礼節をわきまえない人=セックスのことばかり考える即物的な人」であり、「愚鈍な人=フィクションからしか、もしくはフィクションからすら学んでいない人=社会の厳しさ・複雑さを知らない人」であると言っていいんじゃないでしょうか。
 では、どんな人が福満しげゆきにとって下劣でも愚鈍でもないかというと、「小さい頃からの環境的アドバンテージによって色々な能力や地位を得ているので社会の厳しさを知る必要の無い人」です。あくまでもマンガからの判断でこの3類型を確認することができます。他にも「ただ単に理不尽な人」という類型もあります。

 ならば、そういう人達ばっかりの世の中で「僕」はマンガの主人公として、どんな態度を取ればいいか。どうすれば愛される主人公になるか。
 それこそが、「小さい頃から環境的なアドバンテージがなかったためにかつては下劣だったが色々と厳しい経験も積んできたために少なくとも愚鈍ではなく努力の結果もあってかいつの間にかそれなりの地位も得て必死にがんばっておりそれでもやっぱり下劣なことも考えてしまって危機感も劣等感も恨みも全然消えないグラグラな僕」という全てに言い訳するかのような自己像なのです。
「僕」が何かかわいげを保ったまま言おうとすれば、「何を考えているかわからない読者」のために延々と続く客観視をしていかなければいけません。これに関しては、文学であれば町田康、漫才であればブラックマヨネーズなど、各方面で同じようなことはされてきました。町田康を読んでもらいます。

自分は随筆を書き進めるにあたって、没にならないように細心の注意を払わなければならないが、どういうところを気をつければよいかというと、面白くないから没ということはほとんどない。つまり没といわれて、きっと面白くなかったからだ、と気に病む必要はまったくないということである。またその原稿の内容が不正確であったり、錯誤・過誤にみちみちているから没ということもまずない。その場合は誤りを指摘されるだけである。
 では没の理由はなにか、というとすなわち、その原稿が人をして厭な気持ちにさせる、不快な気持ちにさせる可能性がある、ということが没の理由の9割5分3厘をしめる。すなわち、その原稿の掲載された誌面を見て怒る人が出てくるかも知れない。これが一番困るのである。なぜなら、どんな偉い先生でも、いわれなく人を不愉快にするのはいけないことだからである。
 だから順に考えると随筆を書く場合、没にされないように書く必要があり、そのためには他が不快にならないように書く必要があるということであり、これが基本の基本、初歩の初歩、イロハのイ、鉄則中の鉄則なのである。 
 そういうことを踏まえて、さあ随筆を書こう。

 昨日、パンを買いに行った。家にパンがなくなったからである。

 というのは大丈夫だよね?オッケー?オッケー?いいよね?別に誰も不快になってないよね。よし大丈夫。じゃ進めよう、ってええっと、なんだっけ?そう、オレはパンを買いに行ったのだ、のだけれどもちょっと待てよ。パンを買いに行った、なんていうことをこういう公の場所でいう場合、ことによるとパン食を奨励しているというように受け取られないだろうか。つまり、読者にはパン以外の、米や饂飩やパスタ類を食べてはいけない、と言っているふうに誤解されないだろうか。だとしたらその産業にたずさわっている人はきわめて不快な思いをするに違いなく、その可能性があるだけでもやはり問題で、没になる可能性はきわめて大である。書き直そう。

昨日、パンを買いに行った。家にパンがなくなったからである。だからといって米や饂飩やパスタ類が嫌いでパンしか食べぬという主義ではない。というかそういうものは非常に好きなのだ。ただそのときは気分でね、パンを食べたかっただけなのであって、小豆などの雑穀類もそれは買わなきゃあと、米も饂飩も買わなきゃあ、と強く強く念じ、絶対に今後一生私は米や饂飩やパスタや雑穀をパンと同じくらいの比率・割合で食べていくと固く心に誓いながら、そして世の中のみんなもそうあればよいと祈りにも似た気持ちを抱きながらパンを買いに行ったのである。

とこれでいいだろう。まだ穴があるかも知れないがそれはゲラで直せばよい。
(「そら、気ぃ遣いまっせ」、『テースト・オブ・苦虫2』、中央公論新社、2006年、75-77頁)


 でも、こんなことは固有名詞とシステムとが細分化してきたからこんなに書く内容が細かくなるわけで、根本的には昔から教訓としてあります。
 例えばその昔、日本人がお米を作り始めた頃、ソクラテスがギリシャの広場を歩いていました。クサンティッペが仕上げたばかりの新しい外套をまとっています。その姿を見かけたアンティスネスがソクラテスのもとにやって来ました。アンティステネスは世間の習俗から遠く離れて生きることを真の哲学者だとした人物です。彼はソクラテスの外套に目をつけて、屈む振りをして自分の古いボロボロの外套の穴をこれ見よがしに見せつけました。ソクラテスはアンティステネスを見ます。外套の穴を、そしてまたアンティステネスを見ます。何も言わずに歩き出したソクラテス。曲がり角を曲がる寸前、振り返って言いました。「君の外套を通して見えるもの、それは君の虚栄心だ」
 要は、何をしたってどんな態度をとったって、反目する人はいるのです。どんなにソクラテスの勝ちに見えても、私は、この話の肝は「ソクラテスもまたアンティステネスに批判されている」という一点に尽きると思います。

 さて、ここで同じくエッセイマンガを描いているカラスヤサトシのマンガを見てもらいましょう。

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 くそつまらないですよね。
 これは、「人というのは基本何を考えているのかわからないものなのです」という真理にも近い人間観があるならば、延々と続く客観視であるとか何らかの対策を講じないといけないのに、現在自分がしている(少なくとも私から見ればしょぼい)客観視を「最上」のものだと(わざわざ大ゴマ使って)規定し、更なる可能性を打ち切ってしまう揺るぎない態度(不安の無さ)に起因するものだとは言えないでしょうか。
 合わせ鏡は無限に反射して自分を映しますが、肥大した自己が鏡面を遮ってしまえばその姿を見通すことはできません。デカルトは、その永遠に続く疑いの眼差しの中に、「我思う、故に我あり」を見出しました。それを見て疑っている「私」はいるということだけを確信したのです。
 無限に自己否定が可能な心の中で、やっと自分は現れる。だから、自己肯定の最中にも、自己否定の態度を中断してはいけない。客観視の背後に、まさに客観視している自分(もしくは読者)がいることを想定できないのって、かなり「愚鈍な人」であると私は思います。
 それは、カラスヤサトシがマンガの企画でどんなに色々なことを体験しようとカバーしきれないものです。本人は色々と経験を積んで「まともな人間」になっているかも知れませんが、マンガの主人公として実感できないのだからしょうがありません。

 成長とは、納得や諦めを積み重ねることではありません。これでいいのか、これよりももっといい考えが……、と悩み、また忘れ、思い出し、その断続ごとの差異を実感し、その差異の中に揺るぎないものを感じ、両者のバランスの取り方を学ぶことが、成長を実感し、己を知るということなのです(知りませんが)。
 しかし、それを見ているのは自分だけではない……。

 僕の妻のお兄さんが、ブログやるときに、「アバター」っていうんですか?
 自分のキャラクターを作るんですよね。それを……、すごいハンサムガイにするんですよ。僕からすれば、全然見た目と違うわけですよ。
 つまり、自分の内面を見つめるような客観視と、自分が人にどう思われてるか、というのは一致しないものなんです。
(福満しげゆき『グラグラな社会とグラグラな僕のマンガ道』P.142)


 永遠に続く内面との葛藤の合わせ鏡を覗いている自分を、様々な人が様々な視座から、様々な視点を持って見ている。それが「社会」です。そして人は「社会」の中で生きている。さらにその場その場で異なる「空気」が作られている。
 どんな言葉を口にしても、どんな解釈もあり得てしまう社会。その恐ろしさと難しさとやるせなさを知らない、提示してくれない人のマンガを読みたいとは思いません。

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 ちなみにこのマンガは、『カラスヤサトシのおしゃれ歌留多』に載っているそうです。はっきり言って『カルタ』とつくものにロクなものはありません。
 とにかく、こうした、ささやかな決めつけと納得で塗り込められたものが鼻につくかも知れないという不安が、カラスヤサトシには見られません。思考停止しています。
 そのために、たまに悩む場面が出てこようと、それが続く予感=成長の予感がないのです。よって、その悩みは単なるポーズとなってしまいます。

 だから、人間的成長を実感できないカラスヤサトシのエッセイマンガに比して、態度を保留し続ける福満しげゆきの作品は、エッセイを謳いつつ、逆説的にストーリーマンガの様相を呈してきます。そうでありながら、頑なに「ほのぼのエッセイマンガ」で通すのも「空気」を乱さないための戦略です。
 実際、福満しげゆき自身がストーリー志向を持っていることの裏付けとして、こんな発言があります。

「このマンガ、描く意味あんのかな?」っていうジレンマは常にありますよね。やっぱり「物語を描く」ことこそが自己表現だと思っているんですよね。だから……今はツラいですねぇ。
『僕の小規模な生活』は、ストーリーマンガを描く方法論とは全然ちがうわけです。本来のストーリーマンガなら、ここで前フリしておいて、ここで回収するとかやるんですけど、こういうマンガだと、そういうところから外していったほうが面白いのかな、って思うんです。そうなると、ただのエピソードの羅列ですよ。でも、実際の生活だって、エピソードの羅列じゃないですか。たとえば、編集者さんと打ち合わせをするじゃないですか。でも、その後、家に帰ったらパソコンの将棋とかするんですよ。そこには何の関連性もないんですよ。
(『グラグラな社会とグラグラな僕のまんが道』P133~134)


 ここで、先ほどの『はじめの一歩』の例を思い出してもらいましょう。
 福満しげゆきが「妻」を得る一生懸命でやや行き過ぎたようにも思える奮闘の過程は、主人公がマンガ家になる過程を描いた「マンガ」によって、読者にお披露目されます。
 一つメタ的になりややこしいですが、マンガが売られる時点でもう売れているわけですから、「ちゃんと能力が上がった主人公にヒロインが現れる(福満曰く)正しい」ストーリーマンガの図式になっているのです。
 単行本5~6巻での「回想編」もまた、「打ち合わせして帰ったら将棋する」という脈絡のない(しかもむなしい)エピソードの羅列が多いと自負する自分の人生を「物語化」することで救うためだったように思えてきます。

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 上のように、「僕」が誇らしげな顔をするのは、一家の長である父としての役割を全うしている場面に集中します。『僕の小規模な生活』では、何度も思い悩んだ歴史である『僕の小規模な失敗』の引用がなされますが、家族の前で誇らしげに振る舞う「僕」と、暗い階段で一人パンを食べている学生時代の「僕」が同一人物であるという事実に「成長」が実感されます。それこそが、福満しげゆき自身が考える「正しいマンガ」の証明なのです。
 もちろん「空気」を汚さないよう、こうした誇らしげな場面は最小限に抑えてあり、なるべく単行本の最後に来るようにするという配慮も見せ、そのネタばらしもしています。それがネタばらしも込み込みでの配慮であるのは明らかです。

 だから逆に言うと、成長のない「カラスヤサトシ」が、知人に紹介してもらった人をそのまま家に泊めて翌日いっしょに高尾山に行ってそのまま同棲を始めて妻を持つことは、福満的に考えるならば「正しい」感じがしないのです。(福満しげゆきがカラスヤサトシについてそう思っているというわけではないので悪しからず)
 現実として結婚するのはもちろん誰がとがめることでもありませんが、それがマンガになった時、それはもう「正しくなさ」を孕んでいる。
 メタ的に考えるならマンガ家として成功したカラスヤも福満も一緒じゃないか、と思われる方もいらっしゃるでしょうが、既に書いた通り、カラスヤサトシ本人が成長しようと、そのマンガには「成長」の過程が描かれていない。経験したことがいくら書かれていても、それなりのやり方をもってしなければ、「成長」のシークエンスにはなりません。よって、カラスヤサトシは成長しないことになる。
 描かれたことだけがマンガの中の現実であり、それ以外にはないのです。

 福満しげゆきの場合、「実在する人物かつ作者」という留保付きの主人公は、「空気」を汚し、浄化し、また汚すことで、好況と不況をくり返す景気循環のように、主人公のかわいげの動的平衡を保ちます。
 これが福満しげゆきがたびたび言及する「グラグラ」の本当の意味であるはずです。そして、それはそのままフィクションと現実の狭間で学び、選択した態度なのです。かわいいだけでは、いい人であるだけでは生きていけないし、実際にそんな人物がいるはずはない…(でも「そういうエッセイマンガ」はある……)。
 そのグラグラし続ける過程こそが「成長」であるのは先ほど書いた通りです。
 社会の中で発言できないことをフィクションである主人公に託し、その「成長」を描くことで、作者自身が成長する。
 合わせ鏡いっぱいに口の開いたバカ面をニコニコさせてなんとなく生きている主人公と、その奥にある深遠を見通そうと不安そうにしながら確実に何かを学び取り、やっぱりまだ不安そうにしている主人公。
 どちらが好きなのかは好みの問題なので、みんな勝手にすればいいと思います。

 話変わりますけどね皆さん! エッセイマンガにおいて、完全に「ガード」して、ガードポジションで勝負して、全く「いい人」に徹して、全く「嫌われないように描く」ことだって、やればできるんですよ! 誰だって! 大学程度の学力があれば可能なんです! しかし、それでは意味がないのでギリギリのラインを見つけて…たまにラインを踏み越えて勝負してるのに……。何が言いたいかって、カラスヤサトシさんを「いい人」と解釈して、僕を「イヤな奴」と解釈するのは、単純すぎやしませんか!? と言いたい!! …で、カラスヤさんは映画化されて、僕は、チンチンをいじくるだけの日々ですか!! …そんなの酷すぎる…と言いたいのです…。
(『僕の小規模な生活6』あとがき)

ミスチルはダウンタウンのチンカスみたいなもん

「HERO」以降、桜井さんが抱えている葛藤の一つに、「みんなのため」と「自分のため」の板挟みがあると思います。公と私ですね。って社会学者の宮台センセが言ってました。

 ミスチルの『ヒーロー』という曲は、「もしも誰か一人の命と引き換えに世界を救えるとしたら、僕は誰かが名乗りを上げるのを待っているだけの男だ」という歌い出しです。そのうえで、自分は反戦ヒーローになるよりも、妻と子どもを守る小さなヒーローでありたいと歌い上げます。これはさらに高度なアイロニーです。よほど読解力が高くないと私生活主義ソングだと受け取ってしまいます。ポイントは「だけの男だ」にある。ここに暗号を解くためのパスワードがあります。
 社会背景を知らないと暗号は解けません。少し前までミスチルの桜井和寿は、小林よしのりのファンでした。小林の「私生活に閉じこもってエゴを満たす堕落した生活を脱して、公に貢献せよ」というメッセージに共感していました。そういうメッセージに近接する歌詞を書いたりもしています。確かにそれを否定する歌なのです。「私生活はエゴでくだらなく、公への貢献が崇高だ」はありえないと歌っている。
 しかし「だけの男だ」に込められているのはアイロニーです。桜井は戦争で苦しむ人たちを助けるNPOを立ち上げました。解読するとこうなります。「公への貢献は大切に決まっている。でもそれに比べて私生活の価値が劣るなどということは絶対ありえない。私生活の価値こそが至上であることを知ったうえで、公に貢献するしかありえない。それ以外の公は全部嘘だ。」ここまで解読しなければ、この歌を理解したことにはなりません。
(宮台真司『教育「真」論』)


 このあとちょっと挑発的な文章があるんですが、それは最後に紹介します。宮台先生の意見は、歩留まりこみこみのあえてするパターナリズムだったりで、同意しかねちゃうことも当然あるんですが、私の大事な道しるべになってます。
 そんな宮台先生の批評を借りて、ミスチル桜井さんの歌詞について考えます。公私のバランスについて、桜井さんはどう悩んでどうやって当座の答えを出してきたのか。
 『I LOVE U』は、タイトルからもわかるように、私生活に大きく振れたアルバムで、はっきりと公への言及はなされていません。
 『HOME』では「彩り」や「あんまり覚えてないや」が公私の狭間にいる自分を歌った曲でした。『IT'S A WONDERFUL WORLD』の時すでに完成していた「もっと」は911を歌った歌なんですが、作られた時期が時期なので、葛藤を歌ったものではなく、素直なメッセージとなっています。「かぞえうた」もそうですが、あまりに大きな悲劇が起こった時、これまでの歌詞にあったような葛藤は飛ばされるのです。「私を滅し、公に貢献せよ」が一時的にスローガンとなるわけですから。「もっと」が『HOME』まで収録を待たなければいけなかったことが、桜井さんのアルバムに込めた意図を感じさせます。
 わかりやすいところだけ引用します。

今 社会とか世界のどこかで起きる大きな出来事を
取り上げて議論して
少し自分が高尚な人種になれた気がして
夜が明けて また小さな庶民
(「彩り」)

世知辛い時代だとアナウンスされてるけど
君と過ごした時間があるから 僕は恵まれてるって言える
(「やわらかい風」)

世界中を幸せにするようなメロディー
確かに口ずさんでたはずなのに
あんまり覚えてないや あんまり覚えてないや
あんまり覚えてないや あんまり
(「あんまり覚えてないや」)



 このアルバムに散見されるのは、公への参加・貢献を志しながら個の世界へどうしても帰ってきてしまう自分の姿です。もちろん人間とはみなそうしたものと言ってしまえばそれまでですが、無意識に暮らすか意識して暮らすかで、人の社会での振る舞い方はガラッと変わってしまいます。
 この葛藤にとりあえずの答えを出したのが、『HOME』の次のアルバム『SUPERMARKET FANTASY』の「口がすべって」という曲だったと私は思います。

口がすべって

口がすべって君を怒らせた
でも間違ってないから謝りたくなかった
分かってる それが悪いとこ
それが僕の悪いとこ

「ゆずれぬものが僕にもある」だなんて
だれも奪いに来ないのに鍵かけて守ってる
分かってる 本当は弱いことを
それを認められないことも

思い通りに動かない君という物体を
なだめすかして 甘い言葉かけて 持ち上げていく
もう一人の僕がその姿を見て嘆いてるんだよ
育んできたのは「優しさ」だけじゃないから。。。

争い続ける 血が流れている
民族をめぐる紛争を 新聞は報じてる
分かってる 「難しいですね」で
片付くほど簡単じゃないことも

誰もがみんな大事なものを抱きしめてる
人それぞれの価値観 幸せ 生き方がある
「他人の気持ちになって考えろ」と言われてはきたけど
想像を超えて 心は理解しがたいもの

流れ星が消える 瞬く間に消える
今度同じチャンスがきたら
自分以外の誰かのために
願い事をしよう

口がすべって君を怒らせた
でもいつの間にやら また笑って暮らしてる
分かったろう
僕らは許し合う力も持って産まれてるよ
ひとまず そういうことにしておこう
それが人間の良いとこ


 私生活においてさえ、愛する人に対してさえ全幅の「優しさ」をそそげない「僕」という個人的存在が、世界や社会などの大きな問題に対して貢献するということは、一体どういうことなのかという自問自答です。
 それは同時に「どうあがこうと、『優しさ』というのは、全幅の『優しさ』を注ぐという純粋な形をとらないのではないか」という懐疑でもあります。優しさのイデアは実在しないと言い換えることもできるでしょう。「育んできたのは『優しさ』だけじゃないから」という歌詞が如実に示す通りです。
 公への言及である詞があります。民族紛争が「難しいですね」で片付かないのは、難しいと言うだけでは解決しない、という意味ではありません。「口がすべって」は自己の内面にまつわる歌ですから、「難しいですね」では自分の感情が片付かないということです。
 この恵まれた国にいながら行う公的なことへのコミットは、想像を超えて理解しがたい個人を自他共に消し去る形でしかできません。社会的存在としてしか、社会貢献はできない。でも、私的存在として行わない貢献には、偽善といういわれがつきまといます。なら、やったら偽善者なのでしょうか? 偽善者にならないためには「難しいですね」と言って手をこまねくしかないのでしょうか。いいや、それでは片付かない。だからやっぱりやるしかないのです。葛藤を抱きながら。

 この歌の落としどころを私なりに考えます。
 個人には個人の生活がある限り社会に貢献することは偽善のジレンマがつきまとうけれども、それを理解し、個人であることを優先する自分がいることを自覚しながら、社会貢献の意思を持とうとしたい自分がいる。その意思は、ふいに現れる流れ星を見た瞬間に、他者のために祈れる自分でありたいと心から思うこともある、という歌詞に顕著に表れています。
 でも、その態度は逆に、つまり、社会貢献の意思を持ちながら私的生活を優先しているように映ることがあることもわかっている。それはちょうど、愛する人に接するのと同じように、です。相手のことを思う気持ちがありながら、自分のことを優先する「僕」ですね。
 ただ、愛する人とはそれを許しあうという現実がある。理解できない他者であり、同時に愛する君でありうるならば、いわんや社会をや。社会においても、よりよい関係というのは許しあう形をとるしかなく、私的環境においてそれができる人間は公の場においてもその力を発揮できるはずだ、というのです。
 しかし桜井さんは無邪気ではありません。それは余りに楽観的にすぎることがわかりすぎるぐらいわかっているのです。だから「ひとまずそういうことにしておこう」と歌います。そして、とりあえずの答えを出して前に進むことができる「それが人間のいいところ」だとしてこの歌は終わります。
 ここに見てとれるのはポジティヴなアイロニーです。逆に言うと、個人としての人間は、ここまで考えて自分を説得し、ひとまずそういうことにしておかないと、毀誉褒貶の渦の中、まともな顔で社会貢献などできない時代なのです。

 社会的・時代的閉塞。その折に、ヒーローという社会的存在でありながら個人である伊達直人に身をやつすことで社会貢献が盛り上がったのは非常に象徴的な出来事でした。
 さらに、まさに風穴を開けるような昨年の震災。皮肉なことですが、という前置きをつけずにはいられませんが、社会状況に対しては希望を見出した方が知識人含めて多くいたことからも、これまでの日本社会が鬱屈したものであったかが見受けられます。

 そして現在のところ最新アルバム『SENSE』のタイトルの意味。語義は様々ですが、基本的に意は「感覚」です。つまり、言語や思考として回収できない、それぞれの人間の中に宿る自然な直感や反応。
「口がすべって」でもそうですが、『HERO』以降の歌詞では、人の振る舞いは人の考え方によって支配されているという前提がありました。だからこそ葛藤があったのですね。
 でも、最新アルバムでは、そうした葛藤の末に取るしかない何らかの行動・態度が、「ふり」や「擬態」になってしまうことに対しての危機感がはっきりと見えます。

散々 周りを振り回して
結局 何をしたいんだか
自分にもさっぱり
分からないんだ
(「I」)

富を得た者はそうでない者より
満たされてるって思ってるの!?
障害を持つ者はそうでない者より
不自由だって誰が決めんの!?
目じゃないとこ
耳じゃないどこかを使って見聞きをしなければ
見落としてしまう
何かに擬態したものばかり
(「擬態」)

プライドと格闘した日々なんて今では縁遠いが
年2、3回制御不能の怒りに震えるよ
日曜、何の用意もなくただバイクを走らすよ
頭に浮かぶ良し悪しごとを風が振り払うまで
(「HOWL」)

慌てないで ほら1、2の3の きっかけで飛ぶんだ清水の舞台
氏名住所血液型なんて 皆忘れていいんだ 君をすっとばせ
ロックンロールは生きている 君の中に
未知なる可能性を探っている OH Oh oh
(「ロックンロールは生きている」)

静かに 密かに 嘘を重ね
淀んだ 時流れに 自由を奪われ
ただただ自分の身の丈を知らされ
それでも心は手を伸ばし続ける
(「蒼」)

胸の高鳴りにその身をゆだねよう
燻りをわだかまりを捨てに行こう
深く考えないことが切符代わりだ
(「Prelude」)


 桜井さんの人間観は、どんどん「わからないもの・どうにもならないもの」に近づいていますけど、今まで時間をかけて深く考え、葛藤してきたからこそ、こうして繰り返し「SENSE」を優先しようと信じようとする歌詞に説得力が出るのです。 
 ダーッと見てきましたが、この歌詞に託された意味の変遷を洗練と言わずになんと呼べばいいでしょう。一人の表現者を追いかける喜びは、ホント、こういうところにありますね。

 でも残念ながら、桜井和寿のこういう素晴らしい歌謡曲があっても、意義を理解できるリスナーがいません。これほどリテラシーが低ければ、せっかくいいものをつくっても仕方ありません。「いいものをつくれ」という話と「いいものを理解できる人間を育てろ」という話とは、いつも両輪でなければなりません。
(『教育「真」論』 さっきの続きのとこです)


 なかなか辛辣ですけど、宮台先生は、きっとそういうことを言いたいのだと思います。「今回の歌は好き」「今回のは嫌い」というのでなく、アーティストの考えの変遷を知ることで、今そこにある言葉の意味はまったく違ってくるのです。
 もちろん、桜井さんの言うとおり「感覚」はとっても大事です。でも、「深く考えないことが切符代わり」になるためには、当然、深く考えている現在が出発地点でなければなりません。
 私も、強く、心からそう言えるように深く考えていこうと思います。
 これからもけつのあなカラーボーイをよろしくお願いします。
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