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ハッピーじゃないか

OK, Mr. Biegler, you've got your panties in evidence now.
『或る殺人』


 5時には会社が終わるから、5時半には帰れる。帰れば母の作った夕飯があって、黙って食卓に着く。夕方のニュースを見ながら、準備してくれる母を待っている。小学生の時から変わらない。変わったことといえば、駅前の路上に駐車された迷惑な自転車を扱った特集を下世話だと思うぐらいだろうか。
 そのうち、母が自分のものをお膳で運んできて座る。
「このピエトロのドレッシングさ」
「なに、気にくわない?」
「そんなこと言わない」
「じゃあ何よ」
 いいね。そう言おうとしただけ。
「何よ」
 レポーターは駅前の車通りの多い道沿いに密集して並んだ自転車と平行して走って行く。カメラはレポーターの正面からそれを追いかける。何十秒か走ってようやく自転車が途切れた。カメラが振り返ると、自転車の黒いカゴが空中に太く歪んだ筋をつくっている。遠くでかすかに踏切が鳴った。
「電車来ないときに撮ればいいのに」
 母が言った。気にくわないことを気にしてしまうのはあなたの方じゃない。ここで何かもっとトゲの立ったことを言えば、私が同意しかねることをわかっているから、気にくわないことが始まってしまうのをわかっているから、核心を外して話をする。それでもやっぱり気にくわないところが口を突いてしまうのが、母らしく、女らしい。
「ほんとにね。でも、おっきい駅で電車多いし、何回かやってみて、もういいやってなったんじゃない」
「ああ、そっか。そうかもね」
 私のこういう答えが母はたぶん気にくわないのだ。そしてこの人は、それを私のせいにする。もし母が我慢しきれず、自転車をとめて行った人達やわざとらしいレポーターを悪し様にあげつらったら、どう言ったろう。みんな仕事でやっているとまとめて味方をしたって納得しないだろう。同じようなことは何度もあったはずなのに、これといって思い出せない。
 薄い豚肉で巻いたアスパラガスは私の好物。かみしめると、ほんのり甘い油がアスパラの水分と混じってさらさら口全体に広がってゆくのがわかる。母の料理は美味しい。私は何にもできないが、意地の悪い母の料理はこんなに美味しい。だから家でご飯を食べていると少し荷が重い。
 画面ではまだ一塊になった自転車を映している。買い物袋の詰まった手押し車にとりすがるように歩く老人の視点からこの憂うべき問題が語られるみたい。同情は、誰かに伝えた瞬間その場で当てつけに変わる。私の同情を人に伝えようと思ったら、同情できた私もそこにいて、ニコニコ笑って邪魔をする。そして自分で慰まっている。私はこんなに同情できる女で、こんなに感じやすい心を持ったいい人なのよ。そんな奥底の思いが誰かを傷つける。
「これ、どこの駅?」
「埼玉だって言ってたじゃん、さっき」
「埼玉のどこ?」
「忘れた」
 老人の背後に家のと同じエメラルド色の自転車が画面の隅に映し出されて、ぼやぼやと新しい考えが出始める。一台一台に持ち主が居て、みんながみんなそれを買うとき、気に入った色を選んだのだ。百台あれば百台に、千台あれば千台にそんな思いがちょっとも入っていないなんて考えられない。それは誰かの自転車だから。そういう色とりどりの思い入れがもっと極彩色の街に沈んで影を潜めて、人様に迷惑をかけているというその事実が上手く呑み込めなくて困った。
「あっ、見て。うちのと同じ色」
「そうだね」
 つれない返事。私がスーパーにとめていた一家に一台の自転車を盗まれて、母が買いに行った時のことを思い出す。母は自転車の色を決めるアンケートを取って回った。あの時は兄もまだ家にいた。私は緑がいいと言ったのだ。兄はグレーがいいと言い、父は赤。母は緑を買ってきた。あんなに淡い緑だとは思わなくて、意外そうに笑ったら、母は腹を立てた。今では私も、それこそ同情してしまって気に入っているんだけど。
「話変わるけど、岡部さんのお母さん再婚したんだって」
 母が思い出したように言って、私は驚く。春菜ちゃんは小学校の同級生だ。細いけどふっくらした顔と、愛嬌のあるガチャピンみたいな二重がかわいくて、それがお母さんとよく似ている子。
「えっ、春菜ちゃんのお母さん?」
「今日歩いてたらさ、声かけられて。そしたら岡部さんで。立ち話だったんだけど、再婚したのってすぐ言ってきて」
「えー、すごい」
「どういう関係の人だったと思う?」
「わかんない」
「小学校の同級生だって」
「わっ、詳しく聞いた?」
「同窓会で会って、それですぐに。離婚して、すぐ再婚」
「うれしそうだった?」
「うん」
「ふうん。なんだろう。ずっと好きだったのかな。初恋の人とか?」
「どうだろうね。実は好きだったみたいなこと言われて、燃え上がっちゃったのかもね。お互いに」
「春菜ちゃんはどう思ってるんだろ。ていうか、春菜ちゃんの話、なんか聞いた? 何してるんだろ」
「聞いてないけど、まだ青森にいるんじゃないの」
「そっか。寒くて大変だろうね」
 そっかそっか。日々の淡々とした忙しさに翻弄されて春菜ちゃんが青森へ行ってたなんてそんなこと、私はすっかり忘れていた。何の仕事をしているんだっけ?
 そうこうしている間に食べ終わって、さっさと片づけて部屋に退散しようと立ち上がる。同じような食器を抱えて、家族そろって何千回、何万回と通ったシンクに続くこの動線は、床板が少しへこんでいる。絶対そう。目をつぶっても歩けるそこには道ができていて、でも、この道を通っている限り、私はどこにも行けない。

 自分の部屋でダラダラとネットをしているうちにお風呂が沸いた。
 熱いお湯に身を委ねると、その身に背負い込んだ一日の疲れが溶け出してゆく気がする。だから私はいつも最初に入りたい。仕事のことなんか考えるのはやめるんだ。
 新しく入ってきた後輩に声をかけたとき、そんな私の声かけすら侮辱ととった証として放り出された「一応こんな感じでやっときました」というひどく得意気でぶっきらぼうな声の響きとか、駅のホーム、私が待っているところに疲れた態度で歩いて来て、電車の訪れと共に、疲れたところへちょうどよかったと自然を装って割り込み乗車をするおばさんの赤い髪の白い生え際とか、そのおばさんがいるから読みたい週刊現代の下世話な車内広告に目を向けられないで、サンマーク出版の広告を全文覚えて脳みその中で持て余している混み合った車内のそんな感じとか。
 私はグズでノロマで運が悪くて、人が集まったところで損をする。損しても、損をしていると思われるのはいやだし、恵まれなくても、恵まれないと思われるのはいやだ。紛れもない事実でも、それだけがいやだ。同情されるべきと自分で思っても、同情されるのがいやだ。
 ほっとけと一つだけ願いを流した風呂上がり。バスタオルで念入りに体を拭いて、素裸で洗面所に立つこの時間。お風呂に入っている間に洗面所の明かりを母に消されてしまったせいでお風呂場のドア越しの薄明かりだけを横から浴びてぼんやり浮かび上がっている私の身体は綺麗だ。30過ぎても、お風呂上がりの私はバカみたいに綺麗だ。
 私には密かな日課がある。それはみんなやっているんじゃないかと思うほど手軽にできて健康によく、おすすめである。洗濯機の上、少し厚手のTシャツの上に置かれた薄いピンクのパンティを見る。今日の後ろめたさ、明日への不安、見えないおりもの。馬鹿らしいのはわかってる。むんずとつかんで、洗面所の壁の一角に思い切り、力を込めて投げつける。大型の草食動物か何か殺すつもりで本当に思いきり。手加減なし。手加減したら、そのぶん何かが心に残る。

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 パンティは、ふぱんと壁にはりついて、何秒もそこで静止したように見えた。それから素直に、ピンクの微かな残像を壁に残して、素敵な音でするするストンと落ちていった。
 何事もなかったように拾って足を通す。乙女のパンティは無敵で、傷一つ無い。
「上がったよ」
 上はTシャツ一枚で居間に向かって声をかけると、母はテレビを見ながら舟をこいでいた。こんな時はすぐに起こさないと、どうして声をかけなかったのと憎まれ口を叩かれる。でも、知ったこっちゃない。声をかけなくても私は平気だ。あなたの場合。

 午後11時頃、なんとなくお腹が空いたので買っておいたカップヌードルを持って部屋を出てキッチンへ向かう。
 お腹の前に据えたカップヌードルと、座ってテレビを見ている母の間に体を入れて、キッチンへすべりこむ。どうせお湯を沸かすからバレるのに、相変わらずそんなことをしている。案の定、母が何か察知する。
「あんた、さっき食べたばっかりでまたそんなの食べて」
「いいの」
「寝る前に。太るからね」
「私が太らないの、知ってるでしょ」
「お母さんぐらいの年になって、ボディーブローのように効いてくるんだよ」
 母から初めて聞いたそんな言い回し、どこで覚えたものなのか。いや、どうせテレビだけどね。苦笑できずになんか腹立つ。恥ずかしげもなく老いてゆく様も何もかも。
「私は違うもん」
「ほんと、いよいよ結婚できなくなるからね。自分で婚期を遅らせてさ」
「してたまるかい」
「またそういうこと言う。こっちは心配して言ってるんだから」
 そこで打ち切り。逃げるように、でも湯をこぼすまいとそろそろ歩いて部屋に戻る。
 テーブルの上にはさっきまで見ていた、運良くきちんと勤め始めて2年、もう少しで百万円貯まる青い貯金通帳が半分口を開けている。時間と自由を買うために打ち込まれた私だけの数字。その間に挟まれた○の数の風通しの良さを想像して、風呂上がりにパンティを壁に投げつけなくても済むのではという予感が走った。通帳をひっくり返して、これまで積み上げた重みで黙らせる。膝を立ててなるべく男らしくカップヌードルをすすったら、浅間山荘みたいだと思った。
 二ヶ月後、百万円貯まっても相変わらずパンティはまだ投げている。でも、まだまだ壁はへこまないし、我が家のドレッシングは何も言わないのに二本連続ピエトロの和風となった。でも、私はだんだん飽き始めている。母は全然気付かない。何だってそう。いつもそう。本当に本当に気にくわない。

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まとめ【ハッピーじゃないか】

OK, Mr. Biegler, you've got your panties in evidence now.『或る殺人』 5時には会社が終わるから、5

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